
本土には昔からの文化としてそれぞれの家に家紋があります。でも沖縄の場合、家紋は必ずあるものではありません。そんな沖縄でも今、自らのルーツを探るために家紋を探す人が増えています。
沖縄では「家紋がない」のが当たり前だった
沖縄はかつて「琉球王国」と呼ばれる独立国でした。琉球文化は中国と冊封体制にあったこともあり、中国の文化の影響を強く受けています。
ただ、アジアを中心に様々な国々と貿易をすることによって栄えていた琉球は、日本とも貿易によってつながりがありました。
そのため、貿易を通じて日本の文化も琉球に入ってきました。
そんな琉球王国では、それぞれの文化を取り入れて独自に発展した琉球文化が確立します。
ただし、琉球文化には日本の伝統文化の一つである「家紋」はありません。
そもそも、系図と呼ばれるものを持つことが出来るのは王族や貴族、士族など一部の特権階級だけでした。
そのこともあって、琉球の一般庶民の間では家系図というものもなかったのです。
薩摩藩との付き合いをしていくうちに琉球でも家紋がブームになっていく
琉球王国が日本の文化を取り入れるようになったのは、その後琉球王国が消滅することになるきっかけとなった「薩摩侵略」です。
1609年に薩摩藩の島津氏によって首里城を攻め落とされた琉球王国は、薩摩藩(日本)の属国となります。そしてこれ以降、琉球王国は薩摩藩の支配下に置かれます。
支配する側から支配される側に変わった琉球王国の上流階級の人々は、少しずつ日本の文化に触れる機会が増えていきます。
もちろん、薩摩藩の人々との付き合いも増えてきますので、こうした付き合いをしていくうちに「家紋」という自らの地位や家柄を表すためのマークの存在を知ります。
そして「これはなかなかいいぞ!」ということで王族や士族・官僚などがこぞってマネするようになります。
もちろん一般庶民の間でもいつしか家紋の話題が広がっていきます。
ただ琉球王国では平民が系図(家系をあらわすもの)を持つことが許されていませんでした。
そんな庶民も貴族や士族たちが自慢気に家紋をつけているのを見ると「俺たちだって家紋の一つぐらいもちたいさ~!」という気持ちになってきます。
ただ残念ながら、一般庶民たちが薩摩藩の士族たちと付き合いを持つなんてことはあり得ません。
つまり「真似をしたくても見本がない」というわけです。
そこで一般庶民たちは自分が好きな家紋を作って「これが一族の家紋だ!」と自慢するようになります。
こうして全く家紋の文化がなかった琉球の人々の間に家紋がブームになり、いつしかそれを一族の家紋として引き継いでいくようになったというわけです。
琉球王国の王族の家紋は「左三つ巴」

左三つ巴の家紋は、日本では神社の神紋として使われるものです。八幡神社の屋根瓦や熊野権現の神紋も左三つ巴です。
琉球の王家の家紋として左三つ巴が使われるようになったのは15世紀の中頃だといいます。
ですから、第一尚氏王統の中頃には左三つ巴の家紋が使われるようになったといいます。
左三つ巴の家紋は、その後 第二尚氏王統時代にも継承されました。そのため現在でも琉球王家の家紋は「左三つ巴」となっています。
沖縄にも家紋を調べるための「家紋帳」はある
本土でも冠婚葬祭で家紋を調べる時には家紋帳で調べます。
特に、お葬式では喪服や提灯に家紋を入れるので、本土でお葬式を経験したことがある人であれば一度は見たことがあるかもしれません。
ただ沖縄の場合、そういった意味で家紋を確認する文化がありません。しかも沖縄の家紋は歴史が短いため、家紋帳そのものが出回っていません。
書籍化されているものもありますが絶版となっていることが多く、実際に自分の家の家紋を調べるのはとても難しいです。
でも、家紋帳がなくても諦めることはありません。家紋はお墓や仏壇などに刻まれていることがあります。
また古いご先祖様の写真があれば、ご先祖様が身に着けている着物に家紋が写っている場合があります。
沖縄の家紋の歴史から考えれば自分で家紋を作ってもOKかも?
「琉球王国時代に家紋という文化がなかった」と「庶民は自分で柄を決めて家紋を作っていた」の2つを理由にすれば、あなた自身が自分の一族の家紋を作るのもありなのではないでしょうか?
ただし、家紋を作るということは、その家紋がこれからあなたの一族のルーツを表すマークになります。
家紋を引き継ぐ子や孫のためにも、新たに作る場合は慎重に考えてみてくださいね。