
沖縄県内でも独特の文化と言語をもつ宮古島。この宮古島にも、多くの伝説を持つ偉人が存在します。その一人が、与那覇勢頭豊見親。彼は、乱世の宮古島を、どのようにして平和な島へと導いたのでしょうか?
与那覇勢頭豊見親(よなはせど・とぅゆみゃ)という人物
与那覇勢頭豊見親は、14世紀末から15世紀末に宮古島平良を拠点として活躍した人物です。彼の功績といえば、宮古島を含む先島諸島と沖縄本島との間に朝貢関係を築いたことにあります。彼の功績がなければ、先島諸島は琉球王国領となることも、その後、現在の日本国領となることもかなわなかったかもしれません。
そんな先島諸島における偉大な功績を残した与那覇勢頭豊見親とは、一体どんな人物だったのでしょうか?
与那覇勢頭が生まれた当時の宮古島
与那覇勢頭が生まれた正確な年は、わかっていません。ただ、1390年には与那覇勢頭が中山王察度と朝貢したという記録があるため、14世紀末頃には誕生したと考えられています。彼の人生を大きく左右するきっかけとなっているのが、1340年頃に頻発した宮古島内の豪族らによる争闘です。
武闘派集団によって制圧されていく宮古島
14世紀末、平良の東方一体には、1000人とも3000人ともいわれる大軍を率いる大きな勢力がありました。その軍を率いていたのが、佐多大人(サータオプンド)です。彼らの勢力は非常に強く、島内では武闘派集団として恐れられていました。彼らが襲った村々は踏み荒らされ、見るも無残な状態になったといわれています。
佐多大人は、この強力な軍隊を武器に、宮古島の各地域を次々と制圧し、宮古島史上最大の勢力に登り詰めます。この危機的な状況に立ち上がったのが、平良の根間・外間を拠点としていた目黒盛(ミグルムイ)でした。
宮古統一を成し遂げた目黒盛
佐多大人率いる与那覇原軍に立ち向かってみたものの、その力の差は歴然としていました。圧倒的な優位を誇ったまま、目黒盛軍に襲いかかっていく与那覇原軍。追いつめられた目黒盛を救ったのは、彼を支持する大勢の援軍でした。
こうして奇跡的に勢力を盛り返した目黒盛は、ついに佐多大人を討ち取り、与那覇原軍を撃破します。この戦いによって、長く続いた宮古島の乱世は終わり、目黒盛は、宮古統一を成し遂げます。彼の功績を称えた宮古島の人々は、目黒盛のことを「目黒盛豊見親(ミグルムイ・トゥユミャ)」と呼ぶようになりました。
ちなみに「豊見親」というのは、「名高き領主」という意味があり、その後も首領に対する尊称として使われるようになりますが、そのはしりとなったのが目黒盛といわれています。
敗者となった一族の再興を託された与那覇原勢頭
先島諸島の未来に大きく貢献したといわれる与那覇勢頭が記録に登場するのは、この頃からです。なんと、与那覇勢頭の伯父は、宮古島を軍事作戦によって統一しようとしていた佐多大人。その佐多大人には、生前、後継ぎとなる息子を持つことが出来ませんでした。そのため、彼の後継者として、甥である与那覇勢頭(童名は真佐久)が選ばれます。
こうして与那覇勢頭は、若くして一族の再興という使命を背負うこととなります。
与那覇勢頭はどんな青年だったのか
宮古島に伝わる神歌に、「与那覇勢頭豊見親のにーり」があります。ここに、与那覇勢頭の童名である真佐久の若かりし頃の姿が描かれています。これによると、真佐久は、若干20歳の若者にも関わらず、武勇に優れていたといわれています。その他にも、この「与那覇勢頭豊見親のにーり」には、真佐久に関するこんな伝説が残されています。
瀕死の重傷から奇跡的に回復
与那覇勢頭は、伯父である佐多大人が亡くなったことを受けて、一族の後継者となったといわれていますが、この神歌の中では、佐多大人が討ち取られた目黒盛との戦いにおいて、瀕死の重傷を負ったとも記されています。
しかもその傷は、命の危機とも言われるほどの重症であったにもかかわらず、一族の人々の介抱によって奇跡的に回復したのだとか…。あくまでも、これは、真佐久に関する伝説の一つにすぎませんが、このような伝説は他にもあります。
死後の世界から網をたどって島に帰ってきた
神歌では、若くして島を治める豊見親となった与那覇勢頭に対し、島の人々の間では、妬みや怨みを持つ人が多かったとされています。こうした妬みや怨みによって、死後の世界へ落されてしまった与那覇勢頭。そんな彼を救ったといわれているのが、宮古島で古くから尊敬の対象とされていた「にいら天太」です。
このにいら天太の情けによって、与那覇勢頭は、網をたどって無事に宮古島へと帰ってくることが出来たといわれています。
与那覇勢頭は佐多大人によって殺害されていた?
最近の研究によると、与那覇勢頭の中山朝貢が1390年と記録されていることから、これらの伝説には時代の整合性が取れないと指摘する声もあります。そのため、「与那覇勢頭は佐多大人によって殺害されていた」という説もあります。
孫の大立大殿は目黒盛に託されていた?
与那覇勢頭の孫には、その後、宮古島の首長となる大立大殿がいます。大立大殿は、父である泰川大殿が病で隠居した後、二人の兄が若くしてこの世を去ったことをうけ、与那覇勢頭の後を継いで宮古島を統治したといわれる人物です。
その大立大殿ですが、実は、与那覇勢頭が佐多大人率いる与那覇原軍によって殺害された後、目黒盛に託されたという説があるのです。いずれにしても、与那覇勢頭には様々な伝説が残されているということがわかります。
宮古島の平和と未来のために貢献した与那覇勢頭
話を、与那覇勢頭の偉業について戻しましょう。そもそも、与那覇勢頭の偉業といえば、先島本島と本島を結んだことにあります。このきっかけとなったのが、1390年の中山王察度への朝貢です。
なぜ与那覇勢頭は中山への朝貢関係を強く願ったのか
そもそも、乱世の時代を乗り越え、ようやく平和が訪れたはずの宮古島において、どうして与那覇勢頭は、本島の中山国とのつながりを強く望んだのでしょうか?
その時の与那覇勢頭の想いを知ることが出来る一文が、『白河氏家譜正統』の序文に記されています。この中で与那覇勢頭は、宮古島のことを、本島の中山から遠く離れた海外にあるとしています。その上で、島の政治は常に力に左右され、そのことが深く人々の中に浸透し、正しい仁義忠孝の道を知らないことが国を乱す原因となっているとしています。
こうした宮古島の様子を憂い、島の平和と安泰を願うために、大国である中山とのつながりを持つことを決意したと記されています。
朝貢を果たすまで3年かかった与那覇勢頭
琉球王国の歴史書である『球陽』によると、与那覇勢頭が中山王察度に朝貢するために本島に渡ったのは、実際に朝貢を果たす3年も前のことだったといいます。1388年に朝貢のために中山国を訪れた与那覇勢頭でしたが、全く異なる言語を用いる中山国において、言葉の壁にぶつかります。
中山国の言葉を全く理解することが出来ない与那覇勢頭は、泊に従者を滞在させ、足掛け3年にわたって琉球語を学びます。このような努力によって中山国の言葉を修得することが出来た与那覇勢頭は、1390年、念願だった朝貢を成し遂げます。
ここからも、与那覇勢頭が抱いていた、島の平和への強い想いを感じ取ることが出来ます。
与那覇勢頭の功績を記した史跡が那覇市にある
様々な苦労を乗り越え、宮古島の平和のために中山国との朝貢関係を築いた与那覇勢頭の功績を記した史跡が、那覇市のタカマサイ公園にあります。このタカマサイ公園は、与那覇勢頭が中山王との朝貢を実現させるために、3年にわたって琉球語を学ばせた従者の一人・高真佐利屋とゆかりがあります。
中山国は、宮古島からはるか遠くに位置する異国の地。そんな土地で見知らぬ言葉を学ぶために滞在していた高真佐利屋は、離島の船着き場であった泊港を見ることが出来る高台に毎夜出かけ、「あやぐ(宮古島の歌謡)」を歌って遠い故郷を偲んでいたといいます。
この高真佐利屋の様子を見たこの地域の住民たちは、いつしか彼が訪れるこの高台のことを、「高真佐利屋原」と呼ぶようになります。これが、タカマサイ公園の由来となったといわれています。現在タカマサイ公園は、那覇市内の夜景を一望できる夜景スポットとして、地元では人気となっています。
今も宮古島出身者たちの拝所とされている白川宮
タカマサイ公園には、与那覇勢頭の功績を記した石碑以外にも、「白川宮」と呼ばれる拝所があります。ここは、「子孫拝礼の場所」と記されており、今でも、宮古島出身の人々の間で拝所として大切にされています。
タカマサイ公園
- 住所:沖縄県那覇市上之屋1丁目
- 見学時間:設定なし(自由見学)